キャプティブ保険について聞かれた時のために、知っておくべき3つの基礎知識

こんにちは、ハワイ州キャプティブ保険マネジャーの三澤です。

 

日本はゴールデンウィークですね。平成の時代が終わり、令和の時代が始まります。

 

ハワイは、今週もゴールデンウィークなど関係なく通常通りの営業です。ワイキキビーチとアラモアナショッピングセンターにいつもより多く日本人観光客がいるくらいで、普段とあまり変わりはありません。

 

先週、大手地方銀行の頭取・取締役の方々約20名に対して、キャプティブ保険についてプレゼンをする機会をいただきました。さすがは銀行経営者の方々です。キャプティブ保険のポイントをすぐに理解され、鋭い質問をたくさんいただきました。顧客がすでにキャプティブを保有する銀行の方や、キャプティブのセッションを楽しみにしていたと仰る方もあり、キャプティブに対する関心の高さを感じました。

 

トレンドに敏感な経営者の間で、キャプティブ保険の話題が上がることも増えてきています。ファイナンシャルアドバイザーである銀行関係者も、顧客からの質問に備えてキャプティブ保険の基本的な知識を押さえておく必要があると思います。

 

今回は、先日のプレゼンでも説明したキャプティブ保険について、押さえておくべき3つの基礎知識をご紹介しようと思います。

 

 1.キャプティブ保険とは、企業グループ内に保険会社の機能を持ち、リスク管理を通して企業価値向上に貢献する仕組みです。

 

キャプティブ保険の仕組みについて調べると、中途半端な定義や間違った捉え方が多く出てきます。私は一言でいうと上記の通りだと思っています。

キャプティブ保険会社を所有するということは、企業グループの中に保険会社の機能を組み込むことを意味します。グループ内に保険会社を持つことで、リスク管理の効率化、データの蓄積、再保険市場からの保険調達など、普通の事業会社にはない機能を持つことができます。キャプティブは、こうした新しい会社機能を活用し、戦略的なリスク管理や財務の効率化による企業価値の向上に貢献する仕組みだと言えます。

キャプティブについて聞かれたら、長期的な企業戦略として検討するべき事案であるとアドバイスしてください。

 

 2.欧米ではごく一般的なリスク管理ツールとして認知されていますが、日本企業は導入が遅れています。

 

欧米の企業にとって、キャプティブ保険はごく当たり前の経営ツールです。世界にはキャプティブ保険会社が約7000社存在していると言われており、Fortune 500企業の90%以上が何らかの形でキャプティブを所有しているというデータもあります。これに対して日本企業が所有しているキャプティブは、100社強に留まっています。これは日本の上場企業数に当てはめると、1%未満の割合です。日本国にキャプティブに関する法律が無いことを差し引いても、少なすぎると思います。

キャプティブをすでに導入している企業の活用の度合いなども考慮すると、日本のキャプティブ導入は欧米企業と比べて30~40年は遅れていると思います。

キャプティブについて聞かれたら、経営のグローバルスタンダードとして、ぜひ検討してみるべきだとアドバイスしてください。

 

 3.日本企業のキャプティブの多くは、ハワイ州に設立されています。

 

過去5~10年の間に日本企業のキャプティブは約40~50社ほど設立されていますが、その約半数がハワイ州に設立されています。他の設立地と比較すると圧倒的にハワイ州での設立が多いことがわかります。これには「ハワイに行きたいから」以外に、ちゃんとした理由があります。

あまり知られていませんが、ハワイ州はキャプティブ法制定から30年の歴史あるキャプティブ設立地です。ハワイ州には現在キャプティブが約230社存在しており、約7000億円の保険料が毎年ハワイ州キャプティブに対して支払われています。これは米国内でバーモント州に次いで第2の規模です。

世界を代表するキャプティブ設立地であるハワイ州には、キャプティブ運営をサポートするサービスプロバイダーや保険局のキャプティブ専門部署などの充実したインフラが整っています。また日本企業にとっては、日本語でサービスを提供できる現地のリソースや、規制当局による柔軟な対応なども魅力の一つです。

キャプティブについて聞かれたら、ぜひハワイ州での設立検討を勧めてください。

 

皆さま、10連休ごゆっくりお過ごしください。

 

 

キャプティブ保険 キャプティブ保険の歴史は、イノベーションの歴史。その4 2000年から現在まで

こんにちは、ハワイ州キャプティブ保険マネジャーの三澤です。

 

前回の投稿では、1980年代後半から1990年代後半までのキャプティブの歴史を振り返りました。今回は2000年から現在までの歴史を振り返ってみようと思います。

 

この時代はキャプティブがリスク管理の手法として一般企業に認知され、中小企業も含め多くの欧米企業がキャプティブを設立してきました。1960年代に自家保険会社としてのキャプティブが誕生してから2000年までの40年間に、世界のキャプティブ数は約4000社まで増加しました。現在のキャプティブ数は約7000社と言われていますので、この20年の間に爆発的に増えていることがわかります。

 

アメリカ同時多発テロ事件とTRIA

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件が発生しました。この事件を起因とする損害のほとんどは再保険会社が被り、将来のテロ事件に対する保険引受余力が減少しました。結果、多くの保険会社がテロのリスクを免責事項に加えるようになりました。建設業界や不動産業界への悪影響を懸念し、翌年アメリカ議会がテロリズム・リスク・保険法(TRIA)を制度化しました。TRIAは、アメリカ政府が1000億ドルの予算を裂き、アメリカ国内の保険会社に対しテロのリスクに対して再保険を提供する仕組みです。米国内のキャプティブは、営業権のある保険会社としてこの恩恵を受けました。

 

医療過失保険の引受余力低下と医療過失キャプティブの増加

2002年、医療過失保険の損害率が増加し、セント・ポール海上保険会社(現在のトラベラーズの前身)が医療過失保険マーケットから撤退しました。医療過失の引受余力の減少を受け、多くの医療過失キャプティブや相互会社が設立されました。現在では、医療過失保険の保険料の7割近くが、キャプティブと相互会社によって引受けられています。

 

ハリーケーン被害とキャプティブ増加

2004年から2006年にかけて、ハリケーン・カトリーナを含む5つの大規模なハリケーン被害が発生し、保険料が高騰しました。結果として、キャプティブ保険会社の設立がさらに加速しました。

 

XXXキャプティブの登場

米国の生命保険会社は、連邦政府による規制で多額の引当金を積むことが求められています。多くの生命保険会社は、この引当金要件を過剰な要件であると判断し、キャプティブによる再保険の引受で引当金の効率化を行っています。

 

双務契約グループ・キャプティブの登場

キャプティブ設立地のいくつかは、リスク・リテンション・グループ(グループキャプティブ)を総務契約として組織することを許容しています。総務契約によるキャプティブには法人格がないため、保険収益や納税が各契約者に振り分けられます。この仕組みは、事業主体が非課税である非営利団体にとって税務メリットとなるため、非営利医療法人などが多く利用しています。

 

キャプティブの企業年金制度への活用

2009年、コカ・コーラ社はヨーロッパ地域の社員の確定給付年金の運用に、アイルランドのキャプティブの活用を始めました。確定給付年金は、拠出額や投資運用率の変動に関係なく一定額の年金を支払う仕組みですが、その性質上保険化が可能なリスクであると言えます。コカ・コーラ社は、他にも従業員給付や退職後給付にキャプティブを広く活用しています。

 

特別目的保険会社の登場

2009年、バミューダは特別目的保険会社(SPI)のクラス3キャプティブとしての認可を開始しました。SPIはヘッジファンドなどが所有し、大規模災害リスクの証券化などに利用されます。

 

小規模キャプティブの増加

2000年代以降の大きなトレンドとして、米国での小規模キャプティブの増加があります。米国には、一定額以下の保険料を引受ける保険会社に対する税務メリットがあります。この仕組みを利用した小規模キャプティブの設立が多くありました。また小規模キャプティブに有利な条件を掲げる米国の州が、キャプティブ設立地として大きな成長をしました。小規模キャプティブの現在の保険料の上限額は、230万ドルです。

 

 

4回にわたりキャプティブの歴史を振り返ってみました。キャプティブの歴史は、企業のリスク管理に対する取り組み、そしてイノベーションの歴史であると言えます。欧米企業のキャプティブ導入の歴史を見ると、日本企業の導入の遅れを感じざるをえません。現在日本企業が所有するキャプティブは100社強と言われていますが、日本国の経済規模からして1,000~2,000社は設立されるべきだと思います。

 

アラカイは、欧米企業がキャプティブ活用で培ったノウハウを、日本企業に提供しております。

皆様のお役に立てるのを、楽しみにしております。

キャプティブ保険の歴史は、イノベーションの歴史。 その3 1990年代後半まで

こんにちは、ハワイ州キャプティブ保険マネジャーの三澤です。

 

前回の投稿では、1970年から1980年代前半までに様々な種類のキャプティブが登場し、保険会社が引き受けられない特殊リスクを引受ける重要な役割を担ってきた歴史を振り返りました。今回は1980年代後半から1990年代後半までの歴史を振り返ってみようと思います。

 

この時代はキャプティブが一般の大手企業に浸透し、キャプティブ設立が加速していきます。またレーガン政権による税制改革によって、中小企業による小規模キャプティブの設立も始まります。2000年までには、キャプティブの総数が4000社を超えました。

 

ACEとXLの設立

現在のChubb損害保険の前身であるACEと後にAXAと合併しAXA XLとなるXLは、それぞれ1985年と1986年にグループキャプティブとしてスタートしました。当時、保険会社の賠償責任保険に対する保険引受余力が不足していたことを受け、大手保険ブローカーが保険を購入できない企業を取りまとめてグループキャプティブとして組成したものです。ACEとXLはその後、第三者リスクの引受けや、保険会社の吸収合併、株式の上場など、保険会社として大きな成長を遂げます。

 

 

EIMの設立

1986年、電力会社17社の合弁でEnergy Insurance Mutual Limited(EIM)がバルバトスに設立されました。賠償責任保険の保険引受余力の不足により、原子力事業に関する免責なしに会社役員賠償責任保険を購入することが不可能な状況であったことが原因です。現在EIMは、電力会社やその他のエネルギー産業企業など165社に対し賠償責任保険、会社役員賠償責任保険、火災保険などを提供しています。

 

 

銀行グループキャプティブの設立

1980年代、賠償責任保険の引受余力の不足は金融業界でも深刻な問題になっていました。AIGなどの大手保険会社が、会社役員賠償責任保険に重大な免責事項を追加するようになりました。1986年に大手銀行50-60社がバミューダにグループキャプティブBankers Insurance Company, Ltd.(BICL)を設立し、銀行業の保険引受の多くを提供するようになりました。その後しばらくして大手保険会社が、再度銀行業界の保険引受を拡大するするようになりますが、大手保険会社がBICLが使用していた銀行業界用の保険申込書類を参考にしたそうです。

 

 

レーガン政権による税制改革

アメリカでは、キャプティブを国内に呼び戻す努力が続いていました。1986年、レーガン大統領が30年ぶりとなる大幅な税制改革を行います。その結果、米国企業がバミューダなどのオフショア地域にキャプティブを設立する税務メリットは事実上消滅しました。この税制改革後、ほとんどの大手企業キャプティブは米国での課税を受けることを選択するようになりました。1986年の税制改革は、年間引受保険料120万ドル以下の小規模キャプティブに対する税務メリットを大幅に改善しました。アメリカ中西部の小規模農業共済キャプティブが、保険会社との競争力を得るために導入された税制です。この税制改革を機に、アメリカ国内に小規模キャプティブが増加することになります。

 

 

ハワイ州によるキャプティブ法の整備

いよいよ我らがハワイ州の登場です。ハワイ州のキャプティブ法や規制当局は、1987年にバーモント州をモデルに整備されました。Char Hamilton Yoshida & Shimomotoのジェリー吉田弁護士(現Goodsill Anderson Quinn & Stifel)が、法案作成の補佐やハワイ州初のキャプティブの申請手続きを担当しました。

 

 

ノースリッジ地震の発生

1994年、ロサンゼルス近郊のノースリッジでマグニチュード6.7の地震が発生し、アメリカ史上最も経済的損害の大きな地震となりました。その結果、保険引受余力が大幅に減少し、キャプティブの設立が加速することになりました。

 

 

プロテクテット・セル・キャプティブの登場

1997年にガーンジーで初めてプロテクテット・セル・キャプティブの法整備が行われました。一つの会社組織の中に複数のセルが存在する従来のレンタキャプティブと違い、契約や法律などにより責任範囲が限られる新しいセルキャプティブの枠組みが登場しました。

 

 

バーモント州がキャプティブによる管理非関連者リスクの引受けを法制化

1997年に、バーモント州がキャプティブが管理非関連者リスクの引受けを行うことができるための法律を整えました。管理非関連者とは、本業などで取引のある非関連者を指します。例えば小売業にとっての顧客や不動産業にとってのテナントなどがこれにあたります。これによって、小売業のキャプティブが延長保証を提供したり、不動産業のキャプティブが家財保険を提供したりすることが、アメリカ国内で行えるようになりました。

 

 

この時代は、政府による規制や税制などが整備され、キャプティブがリスク管理の手法として確立した時代だと言えます。

 

次回は、2000年から現在までのキャプティブの歴史を振り返ります。

キャプティブ保険の歴史は、イノベーションの歴史。その2 1980年代前半まで

こんにちは、ハワイ州キャプティブ保険マネジャーの三澤です。

 

前回の投稿では、保険会社としてのキャプティブの始まりと、1960年代にバミューダがキャプティブ設立地として登場するまでを振り返りました。今回は、1980年代前半までの歴史を振り返ってみようと思います。

 

1970年以降、様々な種類のキャプティブが登場し、保険会社が引き受けられない特殊リスクを引受ける重要な役割を担い始めます。1984年にはキャプティブ数は2,000社弱まで増加していました。

 

医療過失キャプティブの設立

1970年代に俗称「Bedpan Mutual(直訳すると差し入れ便器共済?)」と呼ばれる、医療過失賠償責任保険を専門に引き受けるキャプティブが多数設立されました。1970年代にアメリカで医療過失による高額の賠償責任が相次ぎ、保険料が高騰したことがきっかけです。1980年代には同様のキャプティブが42社も運営されており、米国の医療過失保険市場の半分以上のリスクを引受けるまでに成長しました。

 

エネルギーキャプティブの設立

1972年に、石油大手16社によるグループキャプティブOil Insurance Limited (OIL)がバミューダに設立されました。設立の目的は、当時保険会社が供給できなかった環境汚染賠償責任保険の安定供給です。OILは現在、エネルギー企業50社以上が参加し、73億ドル(約8000億円)の資産を有する保険会社に成長し、エネルギー産業を支える重要な役割を担っています。

 

原子力発電キャプティブの設立

1973年に、原子力発電企業14社による合弁でグループキャプティブNuclear Mutual Limited (NML)がバミューダに設立され、米国の原子力発電所の火災総合保険の引受けを開始しました。NMLは1997年にNuclear Electric Insurance Limited (NEIL)と合併するまで、全ての米国の原子力発電所に対して500万ドルまでの火災総合保険と除染賠償責任保険などを提供しました。NEILは1979年のスリーマイル島の原子力事故の後に、米国の原子力発電所がさらに大きな災害に対応するために設立され、NMLが引き受けていた500万ドル以上の損害を引受けました。NEILは2016年の時点で、約40億ドル(約4,500億円)の純資産を持つ規模に成長しています。

電力キャプティブの設立

Associated Electric & Gas Insurance Services Limited (AEGIS)は、1975年に電力会社のグループキャプティブとしてバミューダに設立されました。現在AEGISは200人以上の従業員を抱え、300社以上の参加企業から年間15億ドル(約1700億円)の保険料を引受ける保険会社に成長しています。アメリカ50州全てでサープラス・ライン保険会社(州内で引き受け困難な保険を州外から提供する保険会社)として登録されていて、ロイズ・オブ・ロンドンのシンジケートの一つとして再保険も提供しています。

 

レンタキャプティブの登場

1978年に、キャプティブ機能を専門に貸し出すレンタキャプティブANECOが登場します。それまでも似たようなサービスを提供するキャプティブは存在していましたが、商業的にレンタキャプティブを売り出したのはANECOが初めてです。レンタキャプティブは会社を設立することなく、キャプティブのメリットを低コストで提供できるプラットフォームとして、大きな成長を遂げます。

 

バーモント州によるキャプティブ法整備

1980年代、アメリカではバミューダやケイマン諸島などオフショアに設立されてきたキャプティブを本国に呼び戻す動きが始まります。1981年、先ずキャプティブの法整備を整えたのはバーモント州です。バーモント州は現在でもアメリカ最大のキャプティブ設立地として知られ、米国のキャプティブ業界に多大な影響力を持っています。

 

 

1970年代から80年代前半は、米国の大手企業や職業組合等を中心に大規模キャプティブが、バミューダやケイマン諸島などに設立されました。この時期には、試行錯誤によるイノベーションやキャプティブ法整備の発展などがあり、その後キャプティブ業界が大きく成長するための礎を作った時代と言えます。

 

次回は、1980年代後半から現代までの歴史を振り返ります。

 

キャプティブ保険の歴史は、イノベーションの歴史。その1 1960年代まで

こんにちは、ハワイ州キャプティブ保険マネジャーの三澤です。

 

今日は、欧米企業のキャプティブ活用の歴史を、振り返ってみたいと思います。長くなるので4回に分けてお話ししようと思います。

 

自家保険の歴史は意外と古く、保険そのものの歴史とほぼ同列です。最も古いリスク移転の手段としての保険の記録は、紀元前2000年代頃のバビロニアまでさかのぼります。キャラバンが、資金を借りて出発して盗賊などの被害にあった場合、債権者が損害を負うという言う取り決めがあったそうで、これが保険の考え方の起源だと考えられています。これはまた別の機会にお話しします。

 

ヨーロッパでは1920年代から自社リスクの引受けを行う専門の会社組織は存在していましたが、当時はまだ法整備などはありませんでした。現在の様に保険会社として登録されたキャプティブが初めて登場したのは、1955年のアメリカ・オハイオ州です。保険ブローカーのフレデリック・レイスが、ヤングストン・アイアン・シート&チューブという鉄鋼会社の依頼で保険費用の削減に取り組みました。1955年当時、鉄鋼会社に保険を提供できる保険会社は数社しかなく、労働争議に直面していたヤングストンの保険料は上がる一方でした。レイスは、ヤングストンの保険のみを扱う新しい保険会社Steel Insurance Company of Americaをオハイオ州に設立し、リスクの一部を世界一の保険市場ロイズ・オブ・ロンドンから再保険を買うことで移転しました。これが自家保険会社としてのキャプティブの最初の事例です。フレデリック・レイスはこうしてキャプティブの父となりました。

 

キャプティブ保険会社が親会社にもたらすメリットは、すぐに明らかになりました。キャプティブ保険会社を持つ企業は、投資及び保険収益を得ることができ、再保険市場から直接保険を購入することができるようになります。

 

その後レイスは、1962年に規制の緩やかなバミューダに世界初のキャプティブマネジメント会社アメリカン・リスク・マネジメントを設立します。レイスは、キャプティブマネジメントの父でもあるわけです。これを機に多くのキャプティブ保険会社がバミューダやケイマン諸島など、オフショア地域に設立されるようになります。レイスは、バミューダでキャプティブに対して元受サービス、マネジメントサービス、ガバナンスサービス、再保険プールの提供、保険仲立(保険ブローカー)などのサービスを次々と提供していきました。1960年代末には、100社強のキャプティブが設立・運営されていました。

 

フレデリック・レイスはキャプティブ保険のイノベーションを讃えられ、国際保険協会による保険の殿堂入りをはたしています。

 

次回は、1970年代から1980年代前半までのキャプティブ発達の歴史を振り返ります。